跳转到内容

用户:梦蝶葬花/草稿/松平直政

维基百科,自由的百科全书
松平直政像(月照寺日语月照寺蔵)
时代江户时代前期
生诞庆长6年8月5日1601年9月1日
死没宽文6年2月3日1666年3月8日
改名河内丸→国丸(幼名)→直政
戒名高真院勤誉一空道善
墓所岛根县松江市外中原町月照寺日语月照寺 (松江市)
和歌山县高野山奥之院内
官位从五位下出羽守从四位上左近卫权少将从三位
幕府江户幕府
主君德川秀忠家光家纲
上总姊崎藩日语姉崎藩主→越前大野藩主→
信浓松本藩主→出云松江藩
氏族越前松平家日语越前松平家
父母父:结城秀康、母:三谷氏娘・月照院
兄弟忠直忠昌日语松平忠昌喜佐姬日语喜佐姫毛利秀就正室)、直政、吉松、直基日语松平直基直良日语松平直良
正室:松平忠良日语松平忠良之女:久姬
侧室:长谷川氏之女、篠冢氏之女
纲隆日语松平綱隆近荣日语松平近栄隆政日语松平隆政直丘日语松平直丘
驹姫(松平直矩日语松平直矩正室)、鹤姫(佐竹义处日语佐竹義処正室)、竹姬、万姬、龟姬、喜耶姬、松姬(大久保大善室)

松平直政(まつだいら なおまさ)是江户时代前期的大名。先后经过上总国姊崎藩主、越前国大野藩主、信浓国松本藩而成为出云国松江藩初代藩主。直政系越前松平家宗家初代当主。

经历

庆长6年(1601年)8月5日作为越前北之荘藩结城秀康的三男[1]出生。因为在近江国伊香郡中河内出生,因此得名河内丸(一说国丸)。

庆长10年(1605年),交付给家臣朝日重政养育,庆长12年(1607年)父亲秀康病死后受到异母兄忠直的庇护。庆长16年(1611年)4月17日,在忠直的计划下于京都二条城拜见祖父德川家康。此时接受了朝日重政和忠直的偏讳改名直政

庆长19年(1614年)出阵大坂之役,在冬之阵中与守护在真田丸的真田信繁(幸村)交战。大坂夏之阵跟随忠直从军而活跃,忠直军曾收获包括敌将真田信繁在内的大量敌方将兵的首级,因此取得了巨大的战功。大坂之阵后,因为这些战功而获得祖父家康的表扬、家康の打饲袋(食べ物やお金を入れる袋)を与えられた。忠直も直政の活跃を赏赞し、自身の领内に1万石の所领を与えている。元和2年(1616年)5月6日,江户幕府授予了他上总国姊崎藩1万石,同年6月就任从五位下出羽守、此后成为正式的大名。

元和9年(1623年),兄张忠直因为检点不举而与叔父秀忠关系嫌恶因此被迫让出家督隐退,之后就被流放到丰后国。直政于宽永元年(1624年)6月,加赠移封到越前大野藩5万石,同年8月6日升任四位下(出羽守如元)。寛永3年(1626年)8月19日、兼任侍从

寛永10年(1633年)4月22日,加赠转封到信浓松本藩7万石。寛永11年(1634年)、松本城に月见橹、辰巳附橹を建てて、城门の修复を行うが、これは3代将军・德川家光が上洛の帰路に木曾路を経て善光寺参诣の后、松本に立ち寄る予定だったためという[2]。寛永13年(1636年)には松本に新銭座を起こして寛永通宝松本銭を鋳造するなど、家光の従兄弟として小藩では许されない大事业を认可されている。また职人の人足役を免除し、松本町の地子年贡(地役)も免除するなどした[3]

寛永15年(1638年)2月11日、加赠转封到出云松江藩18万6千石(同时代理统治隐岐国1万4千石),因而成为国持大名。直政转封后开始镇压领内吉利支丹势力,これはかつての领主・堀尾氏や京极忠高らを上回るほど厳しいものであったらしい。寛文3年(1663年)3月25日、幕命を受けて大沢基将と共に灵元天皇即位の贺使となり、上洛した。同年5月26日升任从四位上,转任左近卫权少将。出羽守如元。然而同年11月26日却突然患病,寛文6年(1666年)2月3日在江户的藩邸病死。享年66岁。家督由长男纲隆日语松平綱隆继承。

明治40年(1907年5月10日、特旨を以って位阶追昇される。赠从三位[4]。なお、1927年に松江城本丸に米原云海による铜像“直政公初阵像”が建立されたが、1943年に金属供出で失った。2009年、岛根県庁前に仓泽实による铜像“松平直政公像”が再建された。

轶闻

  • 口达者な人物で、“油口”と影では言われていたほどであったという。ちなみに、直政が家康からもらった打饲袋は月照寺にある。
  • 大坂の阵のとき、生母に“祖父(家康)の目にかなうよう、卑しき母の子として生まれたと后ろ指を差されることのないように”と言われた(‘藩翰谱’)[5]。なお、大坂城の真田丸攻めで奋戦したことから、家康に赏赞されたという(‘君臣言行录’)。さらに、この真田丸攻めにおいて、敌の大将であった真田信繁(幸村)に若武者ぶりを讃えられて军扇を投げ渡されている。その军扇は直政が初代藩主となった出云松江藩の宝として残され、今も松江城天守阁の一角に展示されている。
  • 大坂冬の阵の际に、生母の身份が低く部屋住みの身份にあった直政には军资金がなかったが、家来の神谷兵库が西本愿寺から2千両もの大金を借りてきたおかげで出阵できたといわれている。
  • 大坂夏の阵の际に、直政の家臣・武藤太兵卫が直政の性器(阴囊)を握り、“人は怖気づいた时は缩むものですが、殿のは缩んでおりません”と述べたといわれている。
  • 隐岐群岛海士にある后鸟羽天皇陵の修缮、および新社殿の造営を行った。
  • 入驻出云国之际,将赋有武名的福岛正则旧臣大桥茂右卫门以6千石俸禄登庸,并令其担任家老。

脚注

注釈

引用元

  1. ^ 田中‘シリーズ藩物语、松本藩’、P36
  2. ^ 田中‘シリーズ藩物语、松本藩’、P35
  3. ^ 田中‘シリーズ藩物语、松本藩’、P37
  4. ^ ‘官报’第7157号、“叙任及辞令”1907年05月11日。
  5. ^ 朝仓治彦 三浦一郎 ‘世界人物逸话大事典’ 角川书店 1996年2月、P936の3段

参考文献

  • 田中薫‘シリーズ藩物语 松本藩’(现代书馆、2007年5月)

関连项目

  • 目黒のさんま