用户:A22234798/沙盒3

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下克上列表

下克上者 被下克上者 事件 注解
朝仓氏景 斯波义孝日语斯波義孝 1482年 其父孝景向斯波氏确保了“越前守护”一职,使其在应仁之乱中が“越前守护职”を确约に、応仁の乱で西军であった斯波氏の主君を弃てて东军に鞍替え。
朝仓の鞍替えにより応仁の乱は东军が圧倒的优位となり、その権威を背景に、斯波义俊を名目上の主君として拥立した上で他の斯波家の有力家臣を越前国外に追い落とし、朝仓氏は越前を実效支配し领国化。
尼子经久 京极政经日语京極政経 1482年 尼子经久是京极氏的一门。
细川政元 足利义材 明应之变 1493年 拥立足利义澄
长尾为景 上杉房能 1508年
今川氏亲 吉良义尧 1517年 今川氏は长く骏河守护を务め、吉良氏三河远江の一部を支配する小领主に过ぎないが、御一家吉良氏の分家である今川氏は吉良氏を本家として仰ぐ立场にあった。しかし、この年、今川氏亲は敌対する远江守护斯波义达に味方した吉良义尧から浜松荘曳马城を夺って远江全域を制圧、吉良氏を屈服に追い込んだ。
浦上村宗 赤松义村 1517年
毛利元就 武田元繁 有田中井手の戦い 1517年 安芸国人の毛利元就が、安芸守护の武田元繁を打ち破った戦いだが、仕挂けたのは武田。
また当时の毛利・武田は大内氏に臣従する立场であり、大内氏に対する武田氏の下克上の失败とも解釈できる。
神保庆宗 畠山尚顺 1519年
浅井亮政 京极高清 1523年 名目上は京极氏が近江守护であり続け、完全追放は京极高吉の代。
岛津忠良 岛津宗家 1526年
木沢长政 畠山义尧 天文の乱 1532年
游佐长教 畠山稙长 1534年
斎藤道三 土岐赖芸 1541年 美浓追放后の赖芸は、晩年には美浓に帰参している。
三好长庆 细川晴元 1548年
横瀬成繁 岩松氏纯 1548年
壬生纲房 宇都宫広纲 1549年
陶晴贤 大内义隆 大宁寺の変 1551年 大内义长を迎えて主君として推戴。
织田信长 织田信友 1554年
织田信长 斯波义银 1557年
龙造寺隆信 少弐冬尚 1559年
宇喜多直家 浦上宗景 1561年
三好义継
三好三人众
松永久通
足利义辉 永禄の変 1565年 义辉を杀害、足利义栄を拥立。
徳川家康 今川氏真 1569年 家康が武田信玄と事実上の共闘をした结果、今川家の最大统治领域の过半を夺取した。
织田信长 足利义昭 1573年 室町幕府の灭亡
长宗我部元亲 一条兼定 1574年 一条兼定が家臣団による主君押込で追放された事件だが、事実上は长宗我部元亲土佐を统一。
一条兼定は翌1575年天正3年)に四万十川の戦いで旧领回复を図るも败北。
明智光秀 织田信长 本能寺の変 1582年 织田信长信忠父子を杀害、织田政权の灭亡
羽柴秀吉 织田家 清洲会议 1582年 织田家当主であった织田信忠の横死に伴い、后継者を定める重臣会议であったが、
成人している信忠の弟である织田信雄织田信孝を差し置いて幼い三法师を后継にするよう、秀吉が诱导した(ただし、信长・信忠存命中に决まっていたとする说もある)。
三法师を立てる建前ながら、秀吉が実権を掌握した。
锅岛直茂胜茂 龙造寺高房 锅岛騒动 1607年 锅岛父子に藩の実権を握られた高房が、愤慨の上自决龙造寺一门は胜茂を藩主に推したため江戸幕府も承认。