柳珍山
柳珍山(朝鮮語:유진산、1905年10月18日—1974年4月28日),朝鮮独立運動家,第一共和国至第四共和国前半期活躍的韓国政治家。本名柳永弼(유영필),珍山名取自故乡忠清南道錦山郡珍山面玉溪里。號玉溪(옥계)。
生平
- 1905年10月18日:全羅北道珍山郡端山面邑內里出生[1]
- 1912年:入读錦山郡珍山普通学校
- 1918年:入读京城高等普通学校、全家迁居京城(現在的首尔特別市)
- 1920年:参加三・一独立運動,在校内張贴反日传单,被学校退学。转到普成高等普通学校,1923年毕业。
- 1924年:留学日本早稻田第一高等学院
- 1929年:早稻田大学政经学部入学
- 1932年:学内参与俱乐部「新興科学研究会」的活動,被警察嫌疑反日,未毕业而回国
- 1934年:前往中国江西省南昌,参与組織韓人会的活動(2个月後归国)
- 1945年10月:就任大韓革新青年会(革新青年会)[2]委員長
- 1945年12月:率革新青年会参加大韓独立促成全国青年总联盟(总联盟),任总联盟副委員長
- 1946年4月:大韓民主青年同盟组成,担任会長(名誉会長:李承晩)
- 1947年7月:青年朝鮮总同盟会長
- 1948年12月:大韓青年团最高指導委員
- 1951年:民主国民党总務部長
- 1952年6月:参加前月的「釜山政治波動」抗議和「護憲救国宣言大会」,被逮捕
- 1954年5月:第3届国会議員选举中首次当選(錦山郡、无党籍)
- 1955年:发起統合在野党「民主党」。就任首任劳动部長。属党内的韓民党旧派一派。
- 1958年6月:第4届国会議員选举中再次当選(錦山郡、民主党)。選举後就任院內总務
- 1960年4月:4・19学生革命
- 1960年7月:第5届国会議員选举。3選(錦山郡。民主党)
- 1961年2月:第二共和国时,退出民主党,加入新组成的「新民党」[3]。柳珍山任幹事長
- 1961年6月:民主党新派的实力者吴緯泳的政治資金来源不明,柳珍山因为党幹事長被憲兵带走,关押在麻浦刑務所。
- 1962年3月:朴正熙的國家重建最高會議宣布「政治活動浄化法」、柳珍山的政治活動被禁止。
- 1963年11月:第6届国会議員选举。4選(全国区、民政党)
- 1964年8月:国会通過言論倫理委員会法案,与尹潽善发生对立。23日、民政党監察委員会对柳珍山做出除名处分決定(称第一次珍山波動)。柳珍山进行法庭斗争,11月26日取得復党胜利。
- 1965年5月:参与統合组成在野党「民眾党」、翌年就任副总裁。
- 1967年2月:統合组成在野党「新民党」。就任副总裁
- 1967年6月:第7届国会議員选举。5選(永登浦甲区、新民党)
- 1970年1月:当选新民党總裁
- 1971年5月:第8届国会議員选举。6選(全国区、新民党)。選举之前党内矛盾表面化(称第二次珍山波動)。辞去新民党總裁
- 1972年9月:新民党全党大会再次被选为总裁。
- 1973年2月:第9届国会議員选举。7選(錦山・大徳・燕岐、新民党)
- 1974年4月28日:逝世
脚注
- ^ 尚、珍山郡後与忠清南道錦山郡合併、現在的忠清南道錦山郡珍山面。
- ^ 中国重慶に拠点を置いていた大韓民国臨時政府が帰国準備のために設けた出先機関、大韓民国臨時政府特派事務局が組織した要人護衛のための組織を前身とした青年団体である。左翼系の朝鮮人民共和国系の青年団体を除けば、当時の青年団組織の中でももっとも強力な組織の一つであった。木村幹『民主化の韓国政治 朴正熙と野党政治家たち 1961~1979』名古屋大学出版会、210頁
- ^ 第三共和国~第四共和国時代の最大野党である新民党とは別個の政党。
参考書籍
- 木村幹『民主化の韓国政治 朴正熙と野党政治家たち 1961~1979』名古屋大学出版会
- 韓国精神文化研究院編『韓国民族文化大百科事典』