Talk:日琉同祖論

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未翻譯內容如下--Flame 歡迎泡茶 2011年4月13日 (三) 00:25 (UTC)[回复]

日琉同祖論は、歴史的には17世紀に攝政・向象賢が著した『中山世鑑』にまでさかのぼり、明治以降は沖縄学の大家・伊波普猷によって詳細に展開された。

江戸時代的日琉同祖論

一方日本でも、江戸時代から日琉同祖論が唱えられていた。新井白石はその著『南島誌』(1719年)の総序において、『山海経』に見える「北倭」「南倭」の南倭とは沖縄のことであると述べ、琉球の歌謡や古語なども証拠に挙げて自説を展開している[1]

また藤貞幹はその著『衝口発』(1781年)において、神武天皇は沖縄の「恵平也(いへや)島」(伊平屋島)に生誕しそこから東征したと述べ、皇室の祖先は沖縄から渡来したとの説を展開した。藤貞幹は伊平屋島には天孫嶽(あまみたけ、クマヤー洞窟)という洞窟があり、地元では天孫降臨説があるのを知り、ここが高天原の天孫降臨の地であると推定したのである。本居宣長はこの説に激怒し、その著『鉗狂人』(1785年)でこれに徹底的に論駁している。

  1. ^ 同上7頁参照。ただし『山南経』の該当箇所の「北倭」「南倭」読み方については、今日別の説も存在する。